震災から6カ月経過した11月11日、 「原発ゼロをめざす学習会」が開催され、「原発被災地(故郷)に思いを寄せて」というテーマで、福島県から実家のある岡山に移住をしている大塚愛さんが講演されました。
私は、その同じ日、国鉄労働組合の1047名不当解雇事件の終結集会があり、そちらに出向いたために、大塚さんの話を聞くことができませんでした。
石村とも子さんが、その内容と感想をキチンとブログにしていますので、写真も含めてそのまま紹介します。ご一読ください。
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大塚さんは、岡山大学卒業後、自給自足の生活にあこがれ福島県川俣町に農業研修に行き、その後川内村に定住します。
ガスも電気も水道も無いところで自分で小屋をつくり、大工に弟子入りをし農作業をしながら生活をしていました。
その後、結婚し2人の子どもに恵まれ、夫自作のソーラーパネルなどを駆使しながら自然と共存した生活を続けて12年が経っていました。
子どもさんとおやつを食べていた時、大きな地震に襲われます。他の家に比べ大塚さんの家は構造上大きな被害はなく、ライフラインも自前だったので、避難をしなくても暮らせる状態だったそうです。
ところが、あの原発事故が起こり一変します。
福島原発の電源喪失の情報を受け、午後9時にとにかく西へと避難を始めます。大塚さん家族がこれだけ早く避難行動を起こしたのにはわけがあります。
川内村に住み始めてから間もなく、近くに原発があることを知り、自分なりに勉強をしたり脱原発の運動をしている人の集会に参加するなどしていました。
また、川内村は「原発城下町」と呼ばれる地域で、身近に原発関係者もいて、「東電に行って白血病で死んだ」という話もよく聞いていたそうです。
けれど、いざ住み慣れた土地を離れるとなると「これ以上、川内村から離れたくない」という思いが強くなったそうです。
しかし最初の爆発が起こり、「はじめて自分が住んでいるところに放射能が降ってきてしまったということを認めた」そのとき、「なんてことをしてくれたんだ!という思いがお腹の底からわいてきて、空まで届くような強い思いを抱いた」と。どんなに悔しかったでしょう。
岡山に避難してからは、「3・11以前のことは振り返ることもできない、戻れない愛しい日々になってしまった」と、過去のことも先のことも考えられない状況だったそうです。
そこから、だんだん「いま自分にできることをしよう」と思えるようになり、5月に会を立ち上げ避難を希望する人に住宅を紹介したり、生活物資を集めて配給するなどのとりくみを始めます。
避難をしてきている人の多くは、「母子疎開(避難)」といわれる方が多く、生活支援だけでなく人とのつながりも求められていると感じ、6月からは交流会なども行ってきました。
(原発の映画上映会などにもとりくまれています)
いま、会で出会った人の中から「岡山給食向上委員会」など新しい会も結成され、あらたな運動も広がっています。
大塚さんが、自身の体験を語ることについて「あなたはフクシマの語り部だ」と言われたそうです。これまで40回ほど講演会で話をしてきたそうですが、「いくら話しても思いは尽きない」「ベースにあるのは川内村を愛する心だと思う」と話されました。
そして、「私が大切なものを失ったのは、地震のせいではない。原発事故です。どうしてもあきらめられない思いです」と。
脱原発に向けて「なぜ原発は危険なのか、原発は無くても大丈夫。というメッセージを届けていきたい」と、これからも行けるところには出かけて行って語り部を続けたいと話されました。
大塚さんは、脱原発を訴えるうえで、もっと明るく楽しい訴え方をしたいと、「イマジン」の曲にフラダンスの振りを付けた「アロハで廃炉」を最後に踊ってくださいました。
大塚さんの福島を思うあたたかい気持ち、言葉にならない願いを感じる踊りでした。
もう以前のところに戻ることは出来ないかもしれませんが、せめて安心して暮らせる状況を早くつくることが、政府がすべき最大で最低限の仕事だと思います。
私も、原発のない社会づくりを発信し、新しい社会の実現に向けて頑張りたい!と思いを新たにしました。(石村とも子)
(写真は「アロハで廃炉」を踊る大塚さん