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厳しい闘病生活の末、ついに病に倒れた御前酒辻本店社長辻欣一郎さんの葬儀に参列しました。

辻家のみなさんとは、欣一郎さんのお父さん、そして子どもさんともそれぞれ交わりをもたせていただき、もちろん辻欣一郎さんとは「愛酒楽酔」の仲でした。私にとっては万感の思いを込めての参列でした。

 

多くの参列者を迎える葬儀場は、山々の新緑と山桜のピンク色が鮮やかな旧落合町の木山寺の麓あたりにありました。

享年64歳・・その余りにも若すぎる死に対して、参列者の大くが「無念さ」を隠しきれない様子でしたが、葬儀中にはビートルズの名曲が流れ、最後の出棺の際には、「落語家」らしく出囃子が響き、棺に向かって「ヨッ6代目」の掛け声がかかりました。粋な辻さんらしい葬儀でした。

 

辻欣一郎さんのことですが、娘さんを県下初の女性杜氏としてデビューさせ、息子さんを7代目として育て上げ、新商品の「ナイン」をヒットさせるなど「酒蔵」のリーダーとしての手腕は言うまでもありません。

生まれ育った勝山への思いは強く、最後の「寅さん映画」の舞台ともなった勝山の街づくりには欠かせない方でしたし、B級グルメ「ひるぜん焼きそば」など真庭の観光にも大切な役割を果たされていました。

 

また、驚くほど見識の広い方で、県議会でゴミ問題が本格的な議論が始まる前から、自らの工場の廃棄物の処理を含めて「ゴミゼロエミッション」構想を話されていました。

私たちが「憲法9条を守ろう」の声と運動を広げた際、こちらの我が儘な要望を聞き入れ、「9条酒」を造ってくれました。

その際、「戦時中、酒は戦費調達の財源であり、そのため庶民はアルコールをたくさん加えた美味しくない酒を飲んでいました。現代の純米酒などおいしい酒は戦費の不要な平和な世の中であればこそ飲めるのです」と語って下さったことは今でも鮮明に覚えています。

 

葬儀から帰り道、川沿いの桜を見ながら、多くの思い出が走馬灯のように巡ってきました。

  散るさくら  残るさくらも  散るさくら (良寛)

合掌

 


4月の65歳誕生月を前に、「武田英夫」名義の「介護保険証」が届きました。少し重くなった気持ちに止めをさすように、岡山市から「シルバーカード」が届きました。

 

 先日、高校の同窓会がありましたが、話題はもっぱらその話です。かつての同窓会の話題は、子ども教育の話、その後は親の介護の話、そして今回は自分の話です。

 5年前の還暦同窓会の際の参加者は、200人弱、今回は100人を切り、逆に恩師の先生の元気さが目立つようになりました。

 

 後楽園の桜をバックにある恩師が詠みあげた「唐詩」の一節が妙にしんみり来る同窓会でした。

 

 年年歳歳花相い似たり

 歳歳年年人同じからず

(唐の時代の劉季夷の詩。毎年見る花はいつも綺麗だが、私は毎年ととってゆく・・・)

 


もう一カ月も前の話ですが、前進座の岡山公演を観に行きました。演目の一つ「水沢の一夜」は「蛮社の獄」で知られる高野長英の物語、「水沢」は昔の伊達藩水沢、現在の奥州市水沢です。

 

 高野長英は若くして蘭学を学び、長崎にてシーボルトの「鳴滝塾」で「ドクトル」の称号まで受けた英才です。そして江戸のあっては、渡辺崋山らと「尚歯会」を結成して幕末の内外情勢を研究し、開国の論陣のリーダー的存在でした。

 1837年、薩摩藩などが幕府の異国船打払令によって非武装のアメリカ船モリソン号を砲撃した事件に危機感を覚えた高野長英は、「夢物語」を著わして幕府を批判し「開国」を説きます。その「夢物語」が幕府に咎められて弾圧され、江戸の町で追手によって命を奪われるのです。

時は1850年、坂本竜馬が土佐から江戸の千葉道場に剣術修業に出て来る3年前のことです。

 

 昨年夏、岩手に行った際、水沢まで足を運び、高野長英記念館を観にいきました。そこには、長英の著書「救荒二物考」が展示されていました。天保の飢饉の際、庶民の窮乏を救うために「早そば」と「馬鈴薯(ジャガイモ)」の栽培を奨励した書物です。

 

 幕末維新の際、奥羽列藩同盟を結成し、薩長に対抗した東北ですが、こうした革新の息吹が大きく流れていることに深く心を動かされました。 高野長英.jpg


4日、日本共産党岡山県議団主催の「介護保険改定の問題点学習会」が開催されましたので、参加しました。

所用で途中退席しましたので、その全体の報告は出来ないのですが、実は「私の母の介護度」のことで関心も在り、「介護の当事者」としての参加でもあったのです。

 

 母は今年で90歳、1人暮らしです。心臓が悪く、「しんどい」「しんどい」を繰り返しながらも。自分のことは自分でやろうと努力しています。

これまで「介護度1」ということで、デーサービスやヘルパー派遣などの介護サービスを受けていましたが、今度の「改定」に伴う「認定」で、「介護度1」から「要支援1」に変更になりました。その結果、これまでの介護サービスのいくつかが受けられなくなります。

 

 その結果について、母親の疑問を紹介します。

    介護度が軽くなったことは喜べばよいのかもしれないが、そんな気分にはなれない。

    人に迷惑をかけてはいけないと頑張っていると介護度が低くなる。90歳になろうとして介護度が下がるのは納得できない。

    これまでの介護サービスがあったから「軽度を維持できた」のに、それがなくなるとどうなるのか・・・・

    ヘルパーさんの時間も短くなるそうで、心配だ。

(これでは「家政婦のミタ」でも無理・・これは私のジョークですが)

 

 介護保険制度が始まって12年、「介護の危機」は深刻さを増すばかりです。今回の「改訂」は、「軽度切捨て」により「重度を増やす」危険性があり、「介護の危機」打開に逆行するものではないかと思わざるをえません。

  介護.jpg


4日、高松後援会のみなさんが、片山潜、朝日茂、苅田アサノら郷土の先人を訪ねる企画をしていると聞き、私も途中から参加しました。

訪ねたのは、朝日茂さんは、津山市寺町本行寺の朝日茂のお墓参り、苅田アサノさんは実家の苅田酒造です。

 

朝日茂さんは、国立早島療養所の患者の立場から、憲法25条に保障された「健康で文化的な生活を営む権利」を求めた「朝日訴訟=人間裁判」で有名な人で、日本共産党の大先輩でもあります。

津山市生まれで、寺町の本行寺にお墓があり、お墓の傍には憲法25条を刻んだ碑が建立されています。

 

苅田アサノさんは1949年衆議院岡山一区で日本共産党から立候補し、見事当選を果たした人で、日本の歴史で初めての女性代議士でもあります。

 津山市の苅田酒造の娘さんで、「白バラの君」と呼ばれるほどのオーラがあったと言われています。苅田さんの国会質問を見ると、国の劣悪な生活保護行政や国立療養所の療養生活の改善問題もあり、朝日茂さんの戦いと共通したものを見ることが出来ます(もちろん苅田さんの国会質問は朝日訴訟の数年前です)。

 苅田酒造では、アサノさんの姪に当たる方が、アサノさんの思い出を語ってくれました。「私が苅田家に嫁いできた際に、国会からお祝いに駆けつけてくれ、その時津山駅に降り立った姿は見事なものでした。さすが日本で初めての女性代議士だと思いました」・・。

 

 津山市出身の二人の大先輩の志に触れた有意義な津山行でした。 朝日さん.JPG


大阪市長選挙の結果を受けて、橋下新市長が自分に反旗を翻した市の職員に「市役所を去れ」と発言したり、教育委員に「選挙結果を重く受け止めろ」と恫喝しているとのこと。

 選挙中の争点は「『橋下独裁』か『民主主義』か」でしたが、さっそく「独裁者ぶり」が露わになっています。

 

私たちが「橋下独裁」と呼んでいるその典型は、「大阪維新の会」が大阪府議会に提案している教育基本条例案です。それは、学校教育を知事及び議会の直接的な支配下に置こうとするもので、さらに、知事の目標に服さない教育委員の罷免、教職員への厳しい処罰などの教育への権力統制の体系が盛り込まれています。

 

この条例案に関しては、作家のあさのあつこさんは「上意下達の構造」であり「生きる根っこを切るおそれ」と指摘していますが、全く同感です。

 

フランスの詩人アラゴンの詩の中に「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと」という言葉がありますが、教育とはこうした本質的に人間的な営みであり、権力的な統制とは矛盾するものです。その意味で、橋下氏の条例案は教育とは無縁なファッショ的なものといえます。

 

選挙の結果を踏まえ「反独裁ストップ」の共同を広げることが求められています。


懲役36カ月・・長女監禁致死事件の裁判の様子を注意深く見てきました。児童虐待についての関係者の議論も注目してきました。

 

16歳の子どもは死亡し、母親は終始無言のまま・・・母親の苦悩も子どもの苦痛もその心の動きは解らないままの判決に、釈然としないものを感じるのは私だけではないと思います。

同時に、有罪とか無罪とか、罪が重いとか軽いとかではなく、もっと本質的な「母と子」の関係について考えさされています。

 

童謡詩人・金子みすずの詩の中に次のような「こころ」という詩があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おかあさまは おとなで大きいけれど

おかあさまの おこころはちいさい。

 

だって、おかあさまはいいました

ちいさいわたしでいっぱいだって。              

 

わたしはこどもで ちいさいけれど

ちいさいわたしのこころは大きい

 

だって、大きいおかあさまで、

まだいっぱいにならなくて

いろんなことをおもうから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 事件の当事者の母と子の「こころ」はどうだったのだろうか・・・想像すると暗澹たる気持ちに襲われてきます。


美しい中秋の名月

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友人の大野さんから先ほど送られてきた中秋の名月です。ご覧ください。 中秋の名月.jpg

遠野昔話村.jpgまず、訂正から。

昨日配信の「いのしし日記」に「国男」「国雄」とかなっていました。正確には「國男」です。文書では「国男」と書いている場合もありますのでそれはお許しいただきたいと思います。

 

 さらに、現在も大活躍中のノンフィクション作家の「柳田邦男」と間違えている方もおられるようですので、ご注意ください。柳田國男は「民俗学の祖」といわれている人物です。

 「遠野物語」は柳田國男が今から約100年前、遠野に伝わる昔話を集めたもので「日本人の心のふる里を考えるうえで手がかりになると言われています。

 

 「遠野物語」は「文語体」なので読みにくく、「遠野に行くまでにはぜひ」と思っていましたが、急がしさを理由に途中止めになってしまいました。

 

 それでもせっかく遠野に行ったのですから「水の精霊」といわれる遠野名物の「河童」の人形を孫たちに買って帰りました。


71日、東区の後援会のみなさんを中心に「武田さん 県議20年 ありがとうの集い」を開催していただいたところ、150人に及ぶ方々に参加いただきました。心からお礼を申し上げる次第です。

 

 とりわけ嬉しかったのは、西大寺小学校・中学校に渡る恩師である岸野洋介先生が駆けつけてくださり、「よく頑張った。これからも健康に気をつけてみんなのために歩み続けよ」との檄をいただいたことです。

 

 「お礼の挨拶」でも申し上げましたが、「吉井川の産湯で育った」といっても言い過ぎではない自分にとって、西大寺をめぐる様々な問題は、私のライフワークでもあります。苫田ダム、下流の赤潮と海苔の色落ち、西大寺を流れる砂川、秋芳川、干田川、千町川の防災対策は生涯の仕事とも考えています。

 

 また、先の選挙では、惜しくも石村さんにバトンタッチができなかった悔しさに触れ、石村さんを今後、若い女性政治家として育てていただくことをお願いしました。

 

 最後に、「議員を辞めたから暇になっただろう」と逆に忙しくなっている毎日の生活を紹介しながら、バッジを外したこれからも東区のみなさんと一緒に歩んでいく気持ちを述べさせていただいた次第です。

  武田英夫 県議20年 ありがとうの集い③.jpg


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